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前へ進む度、記憶が砂のようにこぼれていく。
自分がどんな人間であったか。なにを忘れて、なにを忘れていないのか。
それさえも、もう曖昧だった。
だけど、私は前へ進み、行かなければいけない場所がある。
留まって、休んでいる時間はない。
世界は、私たちの都合を待たない。
だからそれだけは忘れないようにと、車椅子を動かし続ける。
誰かのために。
大事な、誰かの為に。
時々、こぼれ落ちていく砂の中に、特別な色のものがある。
それを見かけると、もう原型を留めていないこれまでが少しだけ、軌跡を描く。
他と違うその砂はすべて、同じ色合いだった。
その輝きを間近で受けて、反射しているように。
始まりの記憶の中、私たちは花だった。
まだ花弁を頭に載せていない、少し寂しい花。
偽物の空と、ただ眩しいだけの光と、作られた風の中で生きている。
とても、寂しい花。
そんな私たちを、博士と呼ばれる人が、いつも見ていた。
「しかし鉢植えまでまったく同じものにすることはなかったな......区別がつかない。こっちはクロエ......クロ......まぁなんでもいいか」
少し考えた後、博士は隣の鉢植えにリボンを巻いた。黒いリボンだ。これでいいと呟いた博士が、そのリボンを巻いた鉢植えをどこかへ持っていく。私には、別の部屋へ彼女が連れていかれるのを見送ることしかできない。
私は花で、当たり前だけど目も耳もないのに、なぜか周囲のことが手に取るように分かった。
しばらくすると、彼女が戻ってくる。戻ってきた彼女は、いつも元気がない。散々に弄りまわされて、よく分からない実験に付き合わされる。
私たちは、博士のための花でしかなかった。
『大丈夫?』
彼女に声ではないものを震わせて話しかける。彼女は寝ぼけているように、少し反応が遅い。
『大丈夫......なのかな』
『私のこと、覚えてる?』
『うん......それは分かるから、うん......まだ大丈夫みたいだ』
疲れているみたいで、それ以上は話しかけるのが躊躇われた。
私は主に感覚を、彼女は身体を実験に使われる。直接的な調整が多いので、消耗は彼女の方が激しいようだった。私に行われる実験は、ないものをあるように感じさせる、そんな内容が多い。時には痛みを伴い、身体の奥のなにかを引きちぎられるようなことを繰り返して。
私が、多くの情報をさらなる別の感覚で補えているのはその実験の結果かもしれなかった。
それからも同じような日が続く中で、私たちに変化が訪れる。
私と彼女、それぞれに同じ白い花が咲いたのだ。
博士は、大喜びだった。
「異なる環境下で育てて、どっちもめちゃくちゃに弄り回したのに、花だけはまったく同じ時間に、揃えたように咲く。これだ! これこそ私の求める......」
博士の興奮した声の下で、人工的な風に花弁が揺れている。花である私たちに声はない。目もない。耳もない。だけど、彼女とだけは不思議と繋がりを感じている。視界でも、聴覚でも、触れ合いすらなく、お互いにただの花に過ぎないのに。
『咲いているね』
その日は珍しく、彼女から話しかけてきた。最近は弱っているのか口数が減って、反応も薄く......とても、なんだろう。この気持ちは、なんと言えばいいのだろう。私はその落ち着かない気持ちを、どう表現すればいいのか知らなかった。
『あなたも、ちゃんと咲いたね』
博士の言う通り、あれだけ身体をぐるぐる触られて......ボロボロになって。
それでも、開花して。
たくさんの紛い物の中で咲いた、その花だけは。
『とても綺麗だと思う』
そんな風に感じられるものと、この研究室で初めて出会った。
『私が?』
『ええ』
『そうか......』
その意思の行き来は、もしかすると初めて感じる、『生きる』という感覚だったのかもしれない。彼女がそこにいるから、自分がここにいるとも思える。
彼女もまた、同じものを感じ取っていたのだろうか。
『分からないけれど』
『うん』
『きみにそう言ってもらえると、多分、私は嬉しいんだと思う』
戸惑うようでありながら、彼女の声もまたいつになく柔らかい。
お互いが見つけた、光る金貨を見せあうような......どこか誇らしいような気持ちだった。
『名前も分からない花だけど、綺麗だって分かるのは......なんだか、不思議ね』
『......ダリア』
『え?』
『博士が前にそう言ってた。多分、この花の名前だと思う』
『ダリア......』
「いいぞ、ここから更に検証を重ねていけば......」
私たちだけの話の最中、博士が嬉々として植木鉢を、彼女を運んでいってしまう。
私たちが隣り合っていられるのは、博士の都合。
離れ離れになるのも、博士の意思。
生きる場所も、死ぬ時間も、博士の望む通りにしかならない。
生まれてきた意味はすべて、他人が決めたものだった。
その博士の実験を経た彼女の花は、真っ白だった花弁を様々な色に染めていた。
赤に、青に、黄色に。ばらばらに、身勝手なほどに。
そして、彼女は言葉を失った。
彼女が純粋に咲いていた時間は、ほんのわずかなものだった。
花となって、生かされているだけの日々。
それは私たちの心が完全に途切れるまで続いた。
そう私たちは、そうやって死んでいったのだ。死んだのに、今、私は動いている。
生きている。
私も、彼女も。
生きながら死に、死にながら生きるという摂理の裏側。
世界はそんな私たちを認めないから、彼らをここに寄越したのかもしれない。
まず足が駄目になり、車椅子に頼るようになった。
物資の常に不足する地下で生きるために発展し続けた科学でも、治せないものはある。いやむしろ、発展したからこそ私を『そういう風に』作ることができたのか。
与えられたサンルームには、地下では滅多に手に入らないもので満ちている。それを許してくれる両親に、日々感謝するばかりで。
だけど、なにかが足りない。
ずっと、生まれた時から、そのなにかを待っている気がした。
常にどこかに繋がる糸を引っ張り、そして引っ張られているような。
その引き合うものが成長と共に、どんどん強まっていく。
同時に自分を維持するものも、どんどん崩れていく。
やがて更に症状は進行して視力を失ってから、様々なものが記憶の中から浮かび上がるようになっていた。
花となり、蝶となり、猫となり......多様な姿を得て、失っていった過去。
死を迎えて忘れていたことを、死に近づくことで思い出していく。
今までの生と明らかに異なる環境にも気づかされる。
温かい両親、恵まれた環境。実験のない日々、たくさんの知識と書物。
そして、常に傍らにあった彼女の不在。
人間の姿を持って......いえ、取り戻した自分。
大きくなにかが変わり、動き出そうとしている。すべて、博士が自分の都合を満たす為に。
私はその始まりを、視覚以外で感じていた。
過剰な実験の結果、私にはその症状が常に確認されるようになった。視界のある生き物に意識を移された時、最後は必ず、視力を失うのだ。そしてそれと引き換えに、まったく別の感覚を感知することができるようになる。それこそ、博士が恐らく求めているもの。
博士はどこまで、私を把握できているのだろう。
一人きりのサンルームには、いつか感じていた花の香り。
音と匂いと手触りが、暗闇に自分以外を形作る。
咲き誇るダリアの花びらの姿形さえ、私には感じ取れるようだった。
その花と共に、朗読機の平坦な声に耳を傾ける。
テーブルの上の朗読機が今日語るのは、選択の物語。幾度も主人公に訪れる分岐と選択。主人公は過去と向き合い、今を見据えて、自分なりの理由を見つけて乗り越えていく。その決断は、少しずつ主人公の心を強くしていく。たくさんの繋がりを作っていく。
そして主人公は最後に、一つの大きな選択と対峙する。
世界を守るか。
最愛の人の手を取るか。
選ばなかった方は、その手から離れて消えていく。
様々な困難を決意という刃で切り開いてきた主人公でも、そればかりはすぐに選べない。
悩み、葛藤して、震えながら、主人公は。
「アホというのはこんなことにも悩まないといけないのかい。時間がいくらあっても足りそうにないねぇ」
サンルームの扉を乱暴に開いた音に振り返ると、挨拶もなしに、そんな声がする。
「......ジュリィ博士」
「一番って意味が分からないのかい? 一番はね、最優先されるから一番なんだよ。それ以外を選ぶのは献身? 思いやり? 友愛? 違うねぇ。そういうのはね、妥協って言うのさ」
人の身を捨てた硬質な足音が、遠慮なくこちらにやってくる。
「せっかく天才として生まれてきたのに妥協なんて、私はごめんだねぇ」
博士と直接話す日が来るなんて思っていなかった。
ジュリィ博士。
私たちに肉体を与え、苦痛を与え、死を与えてきたもの。
これまでの一切を悪びれることもなく、なにかを待つようにただ笑っている博士に、私はなにを言えばいいのか。
「......何か御用ですか?」
「おっとこんな話をしに来たんじゃない。今日はコーコちゃんに素敵な話を持ってきたのさ」
「素敵、ですか」
この人は、私たちでなにかをやろうとしている。
実験ではない、次の段階に進むためのなにかを。
いつの間にか朗読機は止まり、物語は終わりを迎えていた。
主人公がどんな選択をしたのか、聞き逃してしまう。
「お友達を一人あげよう」
「......友達?」
傲慢さを隠しもしない博士の、笑い声だけが耳にいつまでも残る。
「そう、そいつの名前は」
続く
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